死別と執着
喪失という観点だけを見てしまえば、何の生産性もない事柄にしてしまっていたんだなと体験前の私はそう思っていました。
あ、こんばんは、dear nobody.
自分の中にいる得体の知れない、だけど確かに感じる本質を持ち合わせている『自己』
誰もがきっとその自分と出会う為の旅をしているのが人生の側面でもあるのかなと考える夜もあったり。
その本質に触れてくれるであろうツインソウル、呼び名はぶっちゃけどうとでもいいんでしょうけれど。
夫婦であれ親子であれ親友であれ、名も知れぬ誰かであれ。
自身の基盤になってくれるのは生まれてから無数に出逢ってくださった方々。
私はツインソウルだけが特異な存在になってくれるとは考えておりません。
そして死別した、逝ってしまわれた方々が再生の道を拓いてくれたことも。
ある夜、kちゃんとこんな会話をしていました。
『いまこの瞬間に胸も張り裂けるくらい悲しい思いをして泣いている人がいるのかな?』
あまりに自分達の幸福に酔いしれて、kちゃんに愚問してしまった夜がありました。
kちゃんは私が独り言を呟いても返事をする人でした。
kちゃんの答えは『要るやろうなぁ、悲しい夜は誰にでもあるさ』
私達はどこかの誰ともわからぬ、そんな悲しみに暮れた人をしみじみ思い煩っておりました。
その時の会話が、ある日突然独りになった私との会話になってくれたんだなと、ことある事に思い出されます。
悲哀の日々を幾つも越えて、新しい涙が湧いて出たことを知る日が来ました。
回顧の中に愛する者がいたことを確認できた時の涙。
手を伸ばせば、ふと振り返れば、いつも過去のそこに自分達がいてくれたという得も言われぬ安堵の涙。
けれどその瞬間、自分は本当は過去にも未来にも存在しないことを知る。
それは、確実に再生の道を歩いて来られたという、今ここにいる自分が確認出来ているからきっと泣いてくれているのだな、と感じられます。
悲哀と孤独は、自己と対話出来る尊い時間となってくれますね。
対話と言ってもそんな綺麗なものでもなかったりする時の方が多いですが。
鼻水垂らして泣き喚いても人の目を気にしなくて楽だな、とか。
あらん限りの大声で空に叫びたいと思ったりしたけど、自制が働くし。人っ子一人通らない田舎でもね。
ふふ、私は敢えて孤独を選ぶ人間性と自分に言い聞かせて生きて来たのかもしれません。
悲哀と孤独だけを味方にしていた自分。
もっと、答えは沢山あっていいのかもなあと、最近はつくづく思います。